学校法人 名古屋石田学園 事業部 名英図書出版協会 名英ガイダンスセンター 〒460-0008 名古屋市中区栄1-14-32
名英図書
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自費出版
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 自費出版について sp

i 著者の声

i 書籍リスト(書籍名をクリックすると書籍内容が閲覧できます)

No.
書籍名
著 者 ・ 作 者 ・ 編集者
38
岡村 富美子 様
37
有田 博司 様
36
小栗 大造 様
35
岡  忠男 様
34
片山 市三 様
33
著者 間瀬 眞吾 様
32
著者 市野 忠士 様
31
編集者 近藤 恵一 様
30
有田 義之 様
29
丸山 正克 様
28
小栗 大造 様
27
酒井 義弘 様
26
稲葉 市造 様
25
談 石川 直典 様
筆 市野 忠士 様
24
本美 信聿 様
23
石川 康彦 様
22
平木冨士夫様
21
とり 宜親 ハトリ様
20
板山万歳保存会 代表 山本 一秋様
19
水野 善一様
18
西畠 哲矢様
17
Shige Grayfield様
16
大和 基美子様
15
竹内  徳様
14
前田 英孝様
13
酒井 義弘様
12
細山 喬司様
11
大和基美子様
10
遠藤 一義様
9
甲斐 保子様
8
間瀬 眞吾様
7
加藤 香景(正一)様
6
小栗 大造様
5
苗代句会 中山 正司様
4
田中 敬教様
3
秦  敏行様
2
新美南吉記念館 館長 矢口  栄様
1
丹羽 浩介様

 

i 書籍内容(著者の声)

 

旅の思い出
著者 岡村 富美子 様
 
  寄付金付の旅を実行し、お城修復と言う目的を持ち旅を楽しみました。本を書こうなんて思ってもいなく、旅の後半に本にして残すべきと言われましたが、自分には書くという苦手な分野でもありますので思いもしませんでした。ところが、お城修復ができなくなり、旅に参加してくださった人達に目的が達成できなかったお詫びと、お礼をしなければいけないという思いが出て、私の思いと皆さんとの楽しかった旅の思いを残し感謝したいという気持ちで書くことを決めました。ですから、最初から最後までの7回の旅を思い出すのに時間がかかりましたが、分かっていれば始めから事こまかく日記式に書き残しておけばよかったと後悔です。本が出来、皆さんにお送りし私の役目は終わりました。本を手にされた参加者の方々からお礼のお手紙を頂き、「再び旅を思い出し当時のことをアルバムと見比べ楽しみました。」と言う内容でした。本にして良かったと今は喜んでおります。

愛と闘病の手紙
著者 有田 博司 様
 
  昭和二十九年五月、私が五年間の療養生活を終えた時、公務員として働く妻が一家を支え、私は家で二児の面倒をみる日常生活となっていた。私は暇をみつけて、五年間の妻や知友からの手紙など整理しているうちに、これを原稿用紙に写し、文集を作ることを思いついた。それから半年ばかりのうちに、書きあがった原稿用紙が三百枚をこえた。
これを年度別に編集し表紙をつけて綴じるわけだが、私は妻への感謝の気持を表すため妻との往復書簡を主とすることにして、四冊の文集が出来上がった。標題は「愛と闘病の手紙」と決めた。
その後、この文集は誰の眼にもふれず、日記やノート類と一緒に箱詰となって私の身近にあった。私は今年八十八歳となり、八十五歳の妻の生気の衰えを気にしている。この度息子が出版した一書が契機となって、古い原稿に日の目を見させる気持になった。

南吉のやなべ
著者 小栗 大造 様
 
  ワシの家内は南吉の家の隣りで生れ育ったンで南吉のことやその家のことはよう知っトル、ワシもよう聞いトル、本にも書いたように書いチャイカンコトは心得トル。
南吉もワシもこのヤナベで育った、その頃のヤナベを今ワシが書かんと消えてしまうがナ、そのついでに自分のことも書き残すことにした、おはずかしい次第、それにつれて矢勝川の彼岸花のことも、長い間ボツボツやればナントカ出来るモンダと、全国から励しの手紙を頂く、本の表紙はハンの木の花房で書いた。今二月誰も知らないハンの木の花房が垂れている、目立たんので誰も知らんドル、それがまたうれしい、今ワシは九十一になった。百までは序ノ口、毎日冬でも矢勝川へ出かけ彼岸花の手入れを仲間とヤットル、人生さまざま、こんなところダンナ、失礼

古希光陰
著者 岡 忠男 様
 
  15年程前、芳賀ゼミ(東北大学)の交流誌「広流」に、芳賀先生から「何か書いて寄稿せよ」という下命を受け、考えあぐねた挙句、満州・ハルピンでの幼少時の体験を書きました。自分では、取るに足らない体験だと思っていましたが、読んで戴いた方々から思わぬ反響を得て、友人の「書いてこそ値打ちがある。どんなすごい体験でも、書かなければ何にもならない」という言葉を実感させられました。その後も、小学校時代の思い出や定年後にグループで訪れた中国での旅行記などをしたためていきました。
07年芳賀先生から、今まで書いたものを本にしてみたらどうかといわれました。その時は、全くその気はありませんでしたが、昨年の8月に70歳となり、古希を迎え、昭和で50年、平成で20年生きてきたことになりました。このフレーズと趣味の水墨画が決め手となり、これまで書いてきたものを纏めてみました。余計な形容詞は省き、テンポを重視したので名文ではありませんが気楽に読んでいただければと思っております。

半田の轍(わだち)
著者 片山 市三 様
 
  いかなる動機で書籍を刊行したかと問われると、そこには様々な要因があります。
私の場合は数年前に商店街の役員達から「あまりに変貌の激しい半田の中心商店街の変遷を残すように」との要望により商工会議所の会報に記載したのがことの始まりで、その後半田観光ガイド協会の指導役の方々から「生き字引」だからと言われ、色々な問いに答えて二~三年間簡単なパンフレット程度のものを重ねていく中に、大量な原稿となりました。
かくしている間に私の住家の百メートル四方の間に幼稚園、小学校、中学校(現高校)大学(各個別々)の同級生が四人おり、その中の三人が、「流水録」、「守分(七十七才の足跡)」、「つぶやき」の立派な書籍を残しました。振り顧ってみると自分一人が書いてないわけで、最後に自分が纏めてと決意し、ここに自費出版に踏み切った次第です。
最初は最低でと思いながら「せっかくだから立派な装丁」をということになり、自分でも驚くほど立派なものに仕上がりました。特に地図は圧巻です。

半田市のいしぶみ
著者 間瀬 眞吾 様
 
  半田市拓本研究会は、市内にあるほぼ全碑を網羅した『半田市のいしぶみ』を一粒社から出版した。このような本はこれまでに半田にはなかったので画期的な出版と言えよう。
半田出身の作家小栗風葉や新美南吉の碑を初め、亀崎に一碑と成岩に三碑もある松尾芭蕉句碑、菅原道真、法然上人、佐佐木信綱の歌碑、サトウ・ハチロー、南吉、陶淵明の詩碑等の文学碑や明治天皇陸海軍大演習の記念碑も読み下し文付きで紹介してある。その他戦争、地震、台風の碑など災害記念碑、地元の俳人・歌人の作品が正確に記載されてある。
半田市の文学、産業、観光、歴史等多様なことが判り、ちょっとした半田通になれる。
内容と資料が素晴らしいと、既に高い評価を受けている。
A5判百六十四ページ、千円。半田市本町と乙川ユニーサンテラスの同盟書林と星崎町の朋雲堂で購入できる。
問間瀬会長電話 0569(22)5416

武豊線物語 本冊
著者 市野 忠士 様
 
  C11265号蒸気機関車が乙川から半田駅横に移転して来ました。そして、鉄道資料館が蒸気機関車の前に建設されました。JRが高架化されるまでの仮設の建物ですが、5月24日に無事開館しました。
それにあわせて、C11265蒸気機関車保存会の河合由平さんから、武豊線物語の物語集を書いてくれるように頼まれました。膨大な資料を貸与されて、それをいかに、鉄道マニアでない人達でも分かるように書いてみました。
明治19年に武豊線が建設されたのは偶然ではありません。この地方には古くからの豊かな産業があり、繁栄していた場所です。
地理的歴史的な条件を長々と記しました。この地区は他に負けないだけの条件と先祖の努力があったから建設できたのです。
また半田駅の資料の中には、昭和19・20年の終戦間近の統計も残っていました。武豊駅には名鉄河和線ができる前の、観光地としての南知多の状態が記されていました。それら、貴重な資料を載せてあります。鉄道マニアにとっては、やや物足りない内容かと思いますが、鉄道の研究をする方は、ぜひ資料館を訪れて調べてください。
皆さんが武豊線とともにこの知多半島のことをより多く知っていただける手がかりになれば幸いと思います。
JR武豊線が、名古屋都市圏の重要な鉄道網の一部分となってより便利になり、皆さんの利用が増えることを期待します。

林学の道  近藤 観慈
編集者 近藤 恵一 様
 
  林学とは森林に関する全ての学問である。その中に砂防、森林環境保全が含まれる。砂防とは土砂災害防止である。登山好きな弟 近藤 観慈は三重大学農学部林学科を卒業後、行政で長年、砂防および災害復旧に従事しながら地すべりの研究をし、母校の准教授に転進後は、豪雨・地震災害が起こる度に現地調査をしてきた。そのような折、弟は何も言わずに50歳で心臓突然死した。本書は弟が歩んできた「林学の道」の記録である。地球温暖化のせいか近年、多雨化傾向にある。健康な森林の洪水・表層崩壊抑制機能により山間地域の土砂災害は軽減される。自然災害は忘れた頃にやってくる。弟は土砂災害や森林の防災機能に関する講演の中で悲惨な自然災害を繰り返さないために、伝承・記念碑の大切さを語っていた。志半ばで逝ってしまった弟の無念さに涙し、残された者の心の中で弟の風が感じられるように、長兄 恵一が最愛の弟のために伝承・記念碑として本書を編集した。

団塊男のイタリア奮闘記
有田 義之 様
 
   五十代後半にさしかかっても、いまだに書生っぽさが抜けない私。思い切って仕事をリタイアし、第二の人生の出発の記念にやったことが、イタリアへの語学留学だった。わずか二ヶ月ほどのことだ、大したことをしたわけじゃない。しかも年齢を重ねるうちに、柔軟だと信じ込んでいた頭脳も硬直してしまった。語学の上達ということに関しては、ほとんど成果はなかった。それでも、何十年ぶりかで学生時代に戻ったような下宿での貧乏暮らしはそれなりに楽しかったし、さまざまな国からイタリア語を学びにくる学生たちとの年齢差をまったく気にしない付き合いも、大いにおもしろかった。また、たとえわずかであってもイタリア人の生活を垣間見て、文化や習慣の違いを実感するとともに、よきにつけ悪しきにつけ自分が東洋人であり日本人であるということを、強烈に意識させられた。
私費留学なんて、お金さえあれば誰にだって出来る。だが、著述のプロでない人がその記録を残すことは稀なのではないだろうか。私は一市井人として、外国での悪戦苦闘と珍道中の記録を残しておきたかったのだ。
いま思うこと。人間って何としょうもないものだろう。しかしおもしろい。

知ったかぶりペルーレポート
丸山 正克 様
 
   豊川在住の外国人に日本語を教えることが契機でペルー人との交流が始まった。食事に招待されたり、一緒に民族音楽を楽しんだりするうちに、彼らの素朴な人柄に親しみを感じるようになった。そんな時、愛、地球博のフレンドシップ事業でペルーを訪問した。マチュピチュやナスカの地上絵で歴史的なロマンを満喫してくるはずであったが、高山病に罹り思いを果たすことができなかった。夢よもう1度、自分の思いもさることながら、百余年前、言葉の通じないペルーに移住していった先人の苦労話や、毎年、体験学習プログラムでマレーシアに連れて行く中学生のホームステイでの苦労を実体験しようという思いが、重なって再度ペルー訪問となった。また、今回の体験の中から、在住の外国人と共存するためにどうすればよいか、見聞したことをありのままに綴ることで、そのヒントを得られないかというのが執筆の動機となった。

続 おっかさん
小栗 大造 様
 
  「何故本を書いたのか」  
そう言われても判ったようで、さてと首をかしげます。でも自分に問うてみましょう。
随分と戦記なるものを読みましたが、それなりの特色、表現いろいろ、ところが母子を中心にしたものは数少ない。私の場合貧しい百姓、母と子のふたり暮らし、それが兵となり出征、九年の長い連続の野戦、その間母に送った軍事郵便が全部貯めてあった。これを元手に、表現は多く短歌に絞った。なるべく冗長を避けるため、憲兵というそれも野戦憲兵の任務の有様、知られていないことを残しておこうと、「続 おっかさん」の題名で、NHKの取材、全国放映で本の注文が多く在庫はなくなった。一粒社さんのお世話で「南吉と岩滑」「悲願花物語」「おっかさん」「続 おっかさん」と出版した。やっぱり何故書いたのか自分に問うてみる。

その時、半田の歴史が動いた
酒井 義弘 様
 
  「この機を逃がすと5年先のことになる」かつて青年と呼ばれた私たちも白髪が目立ち始めた。あせりの心境であった。
このまつりがなぜ計画されたのか。どうして実現したのか。誰がどのように尽力したのか。
それを記録して後世に残すことは、まつりを作り上げた私たちに課せられた責務であると長く心に残っていた。重い宿題でもありました。
ともすれば創始の精神「美しい心を集めるまつり」が忘れられ、華美に、派手に、人を多く集めることだけに力点が置かれるのではと危惧を抱いていた。
本年も第六回となるまつりが挙行された。
当日31台の山車を見て安心して涙が出た。28年前のあの時に活躍された方々の息子さん達が第一線で活躍していた。
「酒井さん、オヤジは亡くなりました。お世話になりましたが、今は私がまつりをやっております」と挨拶してくれた。
歴史は移って行く。歴史は引き継がれてゆく、と実感した。嬉しかった。
もとより拙ない書でありますが、責任の一端を果たした思いです。

南十字星とともに
稲葉 市造 様
 
  空に憧れ、飛行機を愛し、国を憂いて、霞ヶ浦にある予科練に入ったのは昭和15年6月のことであります。今でいうと中学校を卒業したばかりの15歳の時でした。乙13期298名の同窓生がおり、今では生存している者も僅かとなってまいりました。同期の仲間、戦友の横顔が想い出されます。
戦後すでに60余年が過ぎ、平和な世の中となった現在、本当の戦争の悲惨さも風化されつつあります。私の手元に同期の仲間の遺書が残されています。いつかはこれを記録に残さなければと思っていました。遅きながら記憶をひもとき、13期の軌跡を辿りながら、戦争を知らない若者に今日の日本の平和をもたらした原点がここにあることを伝えたい。その思いで筆を執ることを思い立ちました。
戦没の事実確認は13期の諸岡君が防衛省に在職当時、厚生省援護局へ日参しまとめたものを参考にいたしました。同期の戦死公報を必ずしも完璧として求めることは極めて困難なことです。戦闘の様子を客観的に見て考慮し記述いたしました。
戦争を美化するものではありません。記録を残すことにより、祖国の危急と民族愛護の為に、空むす屍と、翔び去った青年がいたことを知ってほしい、予科練の同窓の碑(いしぶみ)にと著したものです。
私は幸いにも生き残り、昭和29年8月自衛隊に入隊いたしました。航空要員として、教育・訓練のためアメリカのサンディエゴ基地に派遣されました。再び航空機に搭乗を夢見て、新しい航空技術を身につけ平和の時代の日本に役立てばと念じて努力してまいりました。海上自衛隊創設の記録として内容を付記いたしました。
この本を発行するにあたりご協力をいただいた、予科練十三期の仲間、ラバウル基地の938空・水偵隊の戦友、遺族の方々に深く感謝申し上げます。また、ソロモンの地に散った、亡き戦友のご冥福を心よりお祈りいたします。
85歳となった今日、家族にも恵まれ、畑仕事を楽しみに健康で暮せることを有り難く思っています。
今あることの喜びを皆様に深く感謝申し上げます。

貧乏が教えてくれた70年
―貧しかった有脇のお話―
談 石川 直典 様
 
  昭和3(1928)年に生を受けて、どん底の有脇の農村で育った。貧しいがゆえに、先人の智恵をたくさん学び取りました。以来70有余年、激動の戦時下を越え、新生日本の中で、生き続けてきました。その後は経済成長と共に、有脇も豊かな住宅地へと変貌してきました。
物心がついた頃に、われわれに多くのことを教えてくれた老人たちは、みな江戸時代に生まれた人たちです。その江戸時代から伝わっていた、農業や生活の中の知恵が、今、我々が老人になっても、若い人たちに伝承できない状態です。
「昔はこうだった。」
と言っても、
「そんなの古臭い。」
と、聞き入れてもらえません。そこで、若者に教えきれない分を、このような冊子にして、後世の人々に知ってもらえたら、これ幸いと思います。
無駄な消費生活、少しでも楽な、贅沢な生活から、
「もったいない精神」「地球環境の温暖化防止」
など、世の中の見直しが世間の話題を集めるようになりました。必ずや近いうちに、生活の見直しが行われるようになり、先人達の、経験が生かされる時期が来るものと確信しています。
自費出版で冊子を作るにあたり、多くの印刷業者を廻って調べて見ましたが、一粒社の社長が一番誠意があり、協力的な態度で接してくれました。お陰で、安く、立派な冊子をまとめることができました。皆様の協力に感謝いたします。今後も、多くのことを学びつつ、実りある人生を続けて生きたいと思っています。
筆 市野 忠士 様
   有脇在住の石川直典さんは、70余年の人生の中で多くのことを学んできました。昭和初期の世界恐慌の貧しい中から、両親や祖父母から多くのことを学び、豊富な知識を蓄えています。この知識を何とか後世に残したいものと、お話を伺って、冊子にまとめることができました。
貧しい小作農の生活から、市役所の給仕・漁業・会社勤めなどの多くの違った人生経験をしてきました。また地域のために、祭礼・消防・自治会役員・PTA活動などもこまめに行われて、有脇についてはすみからすみまで知り尽くしています。
第1部は、貧乏の中での経験談が中心で、人生訓・農業関係・漁業関係・古くからの格言などをまとめました。直典さんの人生の心情が分かると思います。
第2部では、有脇地区を散策して、昔ながらの農村の姿の様子を聞きました。
第3部では、昔の歴史や民話をまとめてみました。
第4部では、お父さん達の時代まで行われた「黒鍬」についてまとめてみました。昭和初期まで黒鍬稼ぎが行われていたのです。
今年(2007年)の6月2・3日の「赤レンガ」一般公開の時に、会場で、直典さんの指導のもとで、「ビール瓶」製作の実演・体験ができました。これも貴重な経験であり、ここで学んだ若い人達が、今後、何十年か先まで、その体験を語り継いでくれる事でしょう。
一粒社の社長の心意気で、安く、立派な冊子を作ることができました。今後の自費出版を作ろうとする人たちへの心強い励ましになるのではないでしょうか。
皆様の協力に感謝しております。

知多地名考
本美 信聿 様
 
  半田市において昭和31年から32年にかけて新町名に変更されました。有脇町ではすべての小字名が消え、まったくの意味のない新町名に変更されました。地名には形がありません。一度名を失えば人々の記憶から忘れられてしまいます。地名は目に見えない文化遺産として、私たちの身近な環境や歴史を伝えてきました。こういった地名変更に憤りを覚え、地名研究を始めて30年経った今、1冊の本にまとめたのが『知多地名考』です。
この本は、明治新政府が全国の小字名を調査した資料『明治15年愛知県郡町村字名調』の地名をもとに記しました。ここには当時の人が呼びあった地名のルビが付されています。方言もあります。まさに生きた地名でした。
内容は12章の項目に分け、宗教、歴史、村の成り立ち、村の環境、地形、動物、鳥、植物などの説明をしています。
この書を地名研究の入門書としてご利用いただければ幸いです。

鈍才 総集編
(第1号・第2号・第3号)
石川 康彦 様
 
  44年前卒業のクラス会を開いた。それぞれが昔話に花を咲かせている。記憶が薄れて正確なことはなかなか出てこない。あと5、6年すればなおのこと、なにがあったかすら出てこないかも知れない。不正確ながらも話が出来るうちに、「文集」なるものが出来たらいいなと思いました。幸いにしてクラス会の席で、卒業時に出した「鈍才」という文集をもう1度読みたい、読みたいがどこかへ行ってしまい無いかもしれない。2、3ではあったがこのような声を聞き、やれるだけやってみようと発起しました。
新たに原稿を集めて発行するだけではなく、44年前の第1号、次の第2号の分を含め総集編として予定しました。1・2号はガリ版刷りの物でしたので、今回パソコンで原版をつくりなおして、印刷・製本は一粒社にお願いしました。都築社長からいろいろなかたちの自費出版があり、それぞれ周りの人達にアピールし、自身も人生のまとめをしている人が多くいることを教わりました。私もその中の1人になったのかもしれません。

我が生きた証し
平木冨士夫様
 
  私の幼い頃家は裕福でした。ところがある時を堺に貧乏になっていきました。私の性格は、その後の引越しや転校が影響し内気な性質が出来あがったと思っています。しかし小学校1年生の頃、父と一緒に描いた絵が大好きになり、後々の人生の支えになったことは私だけの秘密にしています。
私は昭和36年の春、名古屋に就職しました。思い起こせば無学だった親は、社会へ出て苦労しないように「子供だけは高校まで出してやりたい」となりふり構わずに働いていたのを思いだします。子どもたちも当番で夕食を作り、それが当然のように暮らしていました。しかし、私は幼かった弟妹たちを残し高校卒業と同時に県外就職しました。それからわずか2年後、父は病気で亡くなりました。弟妹たちも卒業すると私の後を追うように順番に県外就職しました。妹が就職した後、母は長男の私が名古屋へ呼び寄せ、昨年の9月には米寿の祝いをしました。
私は名古屋へ来て早45年がたち、勤めていた会社も一昨年退職しました。いま静かに振りかえると、もう帰ることのない故郷に何か大事なものを置いてきたように思えてなりません。それは幼い頃、父や母が教えてくれた先祖や親戚の話であり、わが家の歴史です。弟妹たちも一線から去りいずれ知りたいと思うであろう「彼らのルーツ」を、長兄として少しでも伝えたいと思い「我が生きた証し」としてここに書き残す次第です。

ハトリの一〇八星占術(R)
 宜親 ハトリ様
 
  今回自費出版しました。ハトリの一○八星占術(R)は平成十四年当時でも幾度かテレビ、新聞、雑誌に紹介あり、鑑定されたお客様はあらゆる分野のレベルの高いお客様を鑑定し、平成十四年十二月に、私の易本としては初版となる「一○八星占術」(R)の原本になるハトリの「究極開運」勝ち組人生へのアプローチを自信をもって定価二千八百円で出版しましたが、数値計算の出し方があり普通の占い師でも利用できず、一般の人にはなおさら難解で理解できず一部のお客様九四〇冊出で廃本になってしまいました。
それから三年半かけて、一般の人が簡単に使えるよう、考案し今回の出版にこぎつけました。
自費出版になりましたがもう少し、テレビに出て有名であれば出版社より印税付のベストセラー本として出す話が二社ありましたが残念ながらどちらも今回は不採用になり一粒社の都築社長様、スタッフ皆様の応援、協力もあり皆様に喜んで頂ける本として出版できました。
現在、私の易は元政治家トップ、元大臣、国会議員、知事、市長、上場企業社長、スポーツ、芸能、他トップクラスのお客様を鑑定し、一般の人にも評価を得て年々お客様が増えています。
ハトリの一○八星占術(R)本は自分の夢・希望実現 ラッキー・幸運を授かる方位をわかるように作られています。
ご購入なっていただければ、幸せ人生が授かります。

ある日 あるとき
板山万歳保存会 代表  山本 一秋様
 
文集「ある日 あるとき」の内容は、二部構成になっております。
第一部は、小・中学校の同窓生を中心に、お世話になった恩師・先輩の方々の貴重な回想や随想など、人生の一こまが切りとられ、そこに描かれています。
第二部は、郷土芸能、板山万歳の歴史と現在までの活動の経緯が、豊富な写真を使って再現され、伝統に生きる人々の、平和な生活と来福、家内安全と地域の繁栄を願う姿が生きいきと具現されています。
私が、こうしたかたちで自費出版を意図しましたのは、還暦を迎えたころのことでした。
毎朝、教室で渡される作文や詩を綴った一枚の文集をむさぼるように読んだ幼い日の記憶が、ふと思い出され、伝統の継承に力を注いでいる自分の足跡と将来への展望を考えてみる、よい機会ではないかと考えたからです。
ささやかな冊子ですが、私にとりましては愛し子と同じです。多くの人々に読んでいただけることを心から願っております。  

運に恵まれし我が人生
水野 善一様
 
  春日井の田舎町に生まれ育ち、第2次世界大戦でも九死に一生を得て満州から帰国し、つくづく運に恵まれた人生だったと思います。
父親と長兄は58歳で亡くなり、次兄は74歳、すぐ上の兄も72歳と皆、今の自分より若くして亡くなっています。この歳まで生きられるとは思ってもいませんでした。
自分の代で始めた会社も、順風満帆とはいかないまでもそこそこ順調に発展してきました。そんな話を酒の席などで人に話すたび、本にしたらどうだとよく言われました。「本を出版する」と言うことはとても大変な事だと思っていましたが、自分でペンを握らなくても、出版社の方が聞き取りをして製作していただけると聞き、それなら自分でも本がだせると78歳になった今、その気になりました。
問題は、何処にそのような出版社があるかでした。今の世の中は「インターネット」という素晴らしいものがあります。早速検索してみましたら、日本全国よりどりみどり、沢山の出版社が画面上に出てきました。その中で半田市の「一粒社」の名前が目に留まりました。名古屋に近い事はもちろんですが、「一粒」という文字がなんとなく素朴で気に入ってしまったのです。これも私の運の強さでしょうか、とんとん拍子に話が進み自叙伝の出版にこぎつけました。素人の私が本を出版することが出来たのも、「一粒社」の皆様のお陰と感謝しております。本当にありがとうございました。

家族新聞 こいのぼり
西畠 哲矢様
 
  十八年前、知的障害児の次男が小学校に入学した時、これから現れるであろう彼に関する難題に、家族が協力して解決せねばならず、今後いっそう家族の絆を強くせねばと思いました。
そのために、家族を“よく見る”ことが大切と思い、その方法の一つとして、「家族新聞」を作ることにしました。
次男に関わった生活が静かに流れ、「家族新聞」も静かにそれを伝えました。そんな中で長男は、面倒見のよい家族思いの子に育ってくれました。
そして長男が今秋、結婚することになりました。結婚記念に、「君が新しく作る『家族』の参考にしてくれ」という気持ちを込めて、「家族新聞」を製本して贈りました。
また、「その節はお世話になりました」という意味で親族にも配りました。お世話になった人や先生にも、結婚式の写真を同封して送付しました。

TOEIC Bridgeを渡るための英語的発想のススメ
Shige Grayfield様
 
  小学校への英語導入が決まったが、具体的方法が定かでない。今のままで駄目な事は、日本人が英語をできない事で、それを証明している。でも、あなたは既に知っている、身の廻りを英語で何って言うかを。今の方法は、明治維新で活躍したジョン万次郎による和訳方法です。それ以来、社会が大きく変わり、ペンを筆とは、もう言いません。
私は、アメリカの子供達が、どう言葉(つまり英語)を獲得するかをきっかけに、英語を英単語の積み木とし、この組み立てで、解り易く、正確に、そして簡単にしました。本書は、英語学習の切り札です。老若男女を問わず、必読の一冊です。英語が世界共通語となる中、それが見直せる一冊とも思っております。
なお、タイトルは、ジョン万次郎と渡米し、最初に辞書を持ち帰った福沢諭吉の「学問のススメ」、初歩英語テスト「TOIEC Bridge」、そして、これを渡るための虹の架け橋から拝借いたしました。

亡き母に捧ぐ
安らぎとはげましの絵手紙
大和 基美子様
   長寿が自慢であった母も晩年はすっかり体力も衰え、寝たきりの生活になった。遠く離れている私に出来ることはないか、といろいろ考えていたが、当時“下手でよい”“下手がよい”のキャッチフレーズで絵手紙が流行しはじめた頃であったので、これなら病床の母に四季折々の様子を伝えられると思い、絵手紙を書いて送ることにした。それから毎日、筆と絵具にむかう日々が始まった。雨の日も風の日もポストの前に立ちました。
たいして上手な絵ではなくても、私の気持ちが少しでも母に通ればとの一念で書き続けましたが、兄嫁から「おばあちゃん、楽しみにしているよ」との話を聞き、感激のあまり胸の熱くなる思いでした。
平成十一年、九十六歳で永眠するまで、五百十七日間書き続けた絵手紙を、自分の記録としてその一部を冊子にまとめました。
“天国に住所があらば送りたき
母に宛てたる絵手紙のあり”
大和基美子

徳さんと呼ばれて
竹内  徳様
   私は、農家を指導する、農業改良普及員(愛知県職員)として三十余年勤務しました。愛知県職員を退職後、阿久比町役場土地改良課嘱託として八年間勤めました。このように私の一生は農業にかかわる仕事で終わりました。 そして昨年には、喜寿を迎えました。この喜寿を機会に自分の一生を記述して残したいとの思いから、自分史「徳さんと呼ばれて」を書きました。この自分史を書くもう一つの動機は、半世紀にわたって連れそった女房を平成十六年一月に亡くして、半年位過ぎ、心の整理が出来た頃、何かをやらなければ身も心も老化してしまうではないかという心の焦りもあって書き始めました。 しかし、出来上がったものの、文才のない私ですので皆様に贈るには、恥ずかしい気もありますが、「徳さん」が一生懸命に自分の一生を綴ったという思いの一端を感じて頂ければ幸いと思っております。

皆でやれる 健康柔道
前田 英孝様
 
  中学高校などの若い時代に『心身の健康づくりの為の柔道を、より多くの人がやれるような柔道部活動のあり方』についてまとめました。 一般に実技解説書はたくさんありますが、本書は、皆でやれるような活動を主眼とし、柔道以外にも共通する内容を含んでいます。 柔道で共に汗を流した高校同級生三名の共著ですが、それぞれが長い社会体験を経た後に、より一層のこの思いを語り合い、それ以上は互いの調整をさほど必要とせず書き進めました。記述上の注意は、『思いが深い部分などをつい書き過ぎず、説明と事例をバランスよく、そして全体として短時間で読み取れるように』ということでした。 尚、表紙に漫画修習生の絵を用い、彼にも今回一つの体験としてもらいましたが、本全体を楽しいものにする上でも大変良かったと思います。 一粒社さんには、表紙初め全体構成へのアドバイスや幾度もの校正など、大変支えて頂きました。

私の歩んできた道 直球勝負
酒井 義弘様
 
  私は平成13年11月21日に懲役2年、執行猶予4年という不名誉な判決を受けました。このとき私は、この4年間を自分に与えられた試練の時と受けとめ、今まで歩んできた道を反省する機会にしたいと考えました。そして、それまであまり関心がなかった「読書」に埋没いたしました。その読書をする傍ら、自分が辿ってきたことを思いつくままに書き留めていくことにしました。書き出せば、どうしても「野球」ひとすじであった頃のことが思い浮んできました。幼い頃から憧れた「野球」甲子園で準優勝した感動の「野球」のことでした。そして政治を志し、多くの方に支援されながら責務を全うすることができなかったことを深く反省する言葉でした。原稿用紙400枚になったとき、親しい人から出版するとよいと勧められ、私自身「お詫び」の行脚をしたいと強く思いつづけていましたが、それ以上に「自分史」を出版して、自分の願い、実行してきたことの真価を市民に問いかけることの方が大切ではないのかと説かれました。私は今、この「直球勝負」を出版することを決断してよかったと思っています。そして半田市の発展を願って思い切り頑張ったあの頃の熱情を、この本の出版によって再び呼び戻すことができ、心からうれしく思います。尚、本書を出版してから、多くの方から読後の感想やら、励ましのお便りを頂きました。なかでも視覚障害者に対して、ボランタリー活動をしている方から、点字訳してよいか?との問い合せを受けました。私の直球勝負は「点字本」としても、新しい息吹を始めると思うと、楽しくてなりません。

続 路地うら
細山 喬司様
 
 ―自分史のための覚え書―の副題で『路地うら』を刊行して十七年、ようやくにして『続・路地うら』を上梓する事が出来ました。『路地うら』は私が物心ついた頃から昭和二十年八月十五日の敗戦の詔勅をきいた時までを百八十六項目、『続・路地うら』はその後から昭和二十六年の後半までを百十項目で書き綴った物です。私は『路地うら』のあとがきで「この後を書き継ぐに五年の猶予を自分に与えた」と述べました。だが、私は戦後を書く事が如何に難しいものであるかを思い知らされ、そして十七年が過ぎてやっと『続・路地うら』を出版にこぎつける事が出来ました。自分史のようなものをどのように書くかは人それぞれです。私は「あくまで自分の記憶にある瑣末な事を出来る限りすくい上げて一つ一つ書き残す事に拘った。そのコマ切れの一個一個はつまらないガラスのかけらであり貝殻や石ころや木切れに過ぎなくとも、それらを寄せ集める事によって一枚のモザイクの模様を浮かび上がらせることが出来れば」(『路地うら』あとがき)という思いだけで書いたものです。

短歌集「ささゆり」
大和基美子様
 
 主人に勧められ、古希の記念に短歌を纏めました。通信教育のみの力では、まだまだ未熟ですし、進歩もみられませんが日記がわりに綴ってきた短歌も私の人生の足跡と思い決心をして、歌集に収めました。初校を受けとり怖くなり、辞めてしまいたい気持ちと、期待と後悔が交錯した日々が続きました。写真も入り再校もでき、次は完成を楽しみに待つのみとなりました。 我が短歌を古希の記念に纏めたり 初校上りておののき増しぬ 出版に際し、都築延男様には、御指導御助言を賜り感謝申し上げます。

小栗風葉資料集成
遠藤 一義様
 
 生誕一三〇年記念の「小栗風葉展」を開催するに当たり、何か一つ記念になるものを残すことが出来ないかと思い付いたのが、この資料集成の出版でした。 風葉をひろめる会の発足以来、その機関紙なればと発表してきたものがあったのです。色々な方面から風葉を取り上げて、資料として纏めたもので、読む会ととか他の会のある度に、その内の何冊かを携えて行って重宝にしていたのでした。 これからはこの「小栗風葉資料集成」一冊鞄に入れて置けば間に合います。 新しい資料が見付かる度に書き加えていましたので、赤く欄外埋め尽くされたページが各所に出来ていました。それから全部入れてより充実した資料集成としました。 勿論資料は大切ですが、文字だけの固い内容でなく親しんでもらうために、カラーページを多くしました。肉筆の原稿・短冊・口絵・著作本や雑誌の表紙などを入れました。その他に文壇の写真・家族の写真・紅葉の書簡・各地の風葉の碑などを加え、貴重な資料の集成と言えます。 今の段階での成果を殆ど網羅し得たとの思いがあります。しかし研究が進めば新資料は出るでしょう、また出なければ進歩はありません。その時はその時、改訂版を出版すれば良いかと、上梓に踏み切った次第です。是非とも手に取って読んでくださいますようお願いします。

保子つれづれ
甲斐 保子様
 
 趣味の川柳の本に書かせて貰っていたものが十一年で少々溜まったので、読み返して見たら自分史になるのではと、纏めることにしました。 何しろ初めての事ですので、すべて一粒社の社長・都築さんにご指導を願い、親切に教えて頂きながら、本日ここに『保子つれづれ』が出来上がりました。 内容は取るに足らない事ばかりですが、私にとってはどれもこれも、忘れられないものばかりです。七十五歳の佳き記念となります。 夫亡きあと二人の娘に助けられて来ましたが、今回の事にも度々、一粒社まで運んでくれたり、校正の手伝いも真心こめて手伝ってくれました。我が子とは有り難いものだと、しみじみ思っています。

机月青梅句碑建立記
間瀬 眞吾様
   「( 机月の青梅句に)参った。これは参ったな。俳人が、お坊さん以上に、ここまで仏教を深く勉強しているとは思わなかった」 これは、現代の辻説法の第一人者南無の会会長で、かつての超ベストセラー『般若心経入門』の著者、松原泰道師(97)の驚嘆のお言葉である。 東の芭蕉と並んで、西の鬼おにつら貫と称された江戸前期の俳人、上かみじまおにつら嶋鬼貫に次の名句がある。
骸がいこつ骨の上うえを粧 よそおうて花はなみかな見哉
この句は仏教の経典、般若心経の真エッセンス 髄である色即是空、空即是色の前者を詠っている。 しかしこの句だけでは空即是色がないのでいわば片手落ちである。 鬼貫の五十回忌記念句会で、鬼貫の縁者、机きげつ月という俳人が、かの骸骨句を下敷きに、 青梅はその骸骨のみのり哉 という句を詠んで、見事に空即是色を詠い上げ、鬼貫の骸骨句の足らざる所を補っていることが、ある学者の研究で判明した。 冒頭は、松原先生がこのことを初めて知らされたときの驚きのお言葉だった。  拓本愛好家の編者が骸骨句碑の採拓許可が得られなかったことが縁で、青梅句碑が建立されることになった経緯、その青梅句碑除幕式、松原先生のこれらの句に関する法話、鬼貫の末裔とNHK講師・佛教大学教授坪内稔典氏の対談が書かれている。 俳句と般若心経に関心のある方や拓本愛好家等で、この冊子本を一目見てみたい方は、 編者宅、半田市宮路町七三 間瀬眞吾 電話 0569ー22ー5416までご連絡ください。 実費(一冊、五百円)で頒布致します。

句集 俳句遍歴
加藤 香景(正一)様
   句集をとの思いも実現には時間が掛りました。平成七年五月中日俳壇に応募した一句が採用され今日に到っています。今回の決断は昨年の金婚式を機会と思ったのですが、五月十一日に二度目の脳梗塞で倒れ、駄目かと半ばあきらめていましたが、幸いにも家内を始め家族の応援、特に二人の孫が懸命になって支えてくれたので快方に向い、満足とはいきませんが復調したので、七十の手習いで覚束ない指でパソコンを打ち始め十年間の句を選び、校正には短歌での先輩遠藤印象さんのアドバイス、紹介を頂いた本美さんのお蔭が多々ありました。始めて句集を手にした時は、私自身 何くれと応援してくれた家内共々震えが止まりませんでした。一番に私を元気付けてくれた孫に渡した所、早速に読んでくれました。又差し上げた諸氏達も、よい趣味をお持ちでこれから頑張って下さいとの応援メッセージを頂いています。 初心忘れずでこれからも精進に心掛けます。

小栗風葉資料集成
小栗 大造様
   まあ聞いて下さい、読んで下さい、童話作家新美南吉は、文夫、大造二人の五才年上、岩ヤ ナベ滑小学校の上級生、その南吉と家も近く、彼とよく交流のあった文夫君、そのお母さん「しえ」さんが南吉を育んだ愛情の中から生れた南吉童話の原点、これらを私が書けよ、書けよとすすめて、それがわたしの手許に届き、長居の月日が過ぎて来ました。これを本にしたらと、折々口説いて来ました。それがようやく今日となりました。彼の文筆のすばらしさ、南吉の生ナマがまざまざと、そして当時の世相が濃く物語られています。これは、私達八十七才男同志の友情から生れた果実です。尚この本の売上げの一部は私の関わる、ふるさと岩滑を流れる「矢勝川彼岸花二百万本」愛育の糧とさせていただきます。

苗代句会『合同句集』発刊によせて
苗代句会 中山 正司様
   苗代句会は、昭和四十一年に発足しました俳句の会です。「水田に植えられた苗がやがて黄金色に輝くように、自分達も俳句を通して輝こうではないか。」という想いで名前が付けられ、作句活動を続けて来ました。平成十六年夏、「自分達の俳句を一冊の本にしようではないか、」という会員からの声があがり、句集編集委員会を立ち上げました。
俳句を作ることは出来ても句集作りは初めてという人達ばかりが集まった委員会でした。
印刷製本を一粒社に決定して以来、都築社長のアドバイスを受けて発刊まで順調に進めて来ることが出来ました。平成十七年三月初めに、九七〇句が納められた「合同句集」を都築社長から手渡された時、私の全身に喜びが駆け巡りました。
企画の段階から発刊に至るまで、私達の再三再四の相談に気持ち良く応じていただいて、都築社長に苗代句会を代表して感謝を申しあげる次第です。
会の発足当時の想いが『合同句集』の完成したことで大きな輝きとなりました。
ありがとうございました。

第四詩集『地球博物館』発刊の記
田中 敬教様
   三十数年詩を書いてきて、この辺りが一区切りと思い立って、四冊目の詩集を出すことにした。小ぢんまりとした一冊をとの初めの想いは再原稿化の過程で覆り、二十数年に渡って各誌に発表した六〇篇の採録となって一七〇頁に余る大冊となってしまった。
印刷・製本は旧知の都築延男氏にお願いすることにした。すでに一粒社には何度もお世話になり、第三詩集『チベット』の出来により厚い信頼を寄せていた。
この四冊目の詩集はこれまでの詩作の集大成という形になったので、何度も一粒社へ通って都築社長と打ち合わせをし、校正には念には念を入れた。仕上がりは予想を上回り、先ず装丁(担当し
ていただいたのは一粒社のデザイナーさん)の斬新さに驚いた。印刷用紙の選択や活字の陰影も上々で文句の付けようの無い仕事振りである。さすがに一粒社という感を深くした。

『露草の唄 山村に百年生きぬいた母の記録』
秦  敏行様
   昨年十月妻の母が百才で永眠しました。
明治、大正、昭和、平成、を生きぬいた母は、福井県に接する、岐阜県揖斐川の上流にある、緑と水そしておいしい空気に恵まれた小さな山村に生れました。
大正時代、名古屋の女学校を卒業し、村の学校で教員もしました。しかし昭和十五年に夫と
死別し、母親一人で七人の子供を育てることになりました。
苦労の甲斐があって、晩年は八十人を超す一族に囲まれて過すことができました。
今年二月兄弟で久し振りの一泊旅行をし、思い出の記憶を辿り、みんなで母の記緑を綴り一冊の本にまとめよう、と云う相談をしました。 幸い長女が出版の経験が多くあり、作文の添削を担当しました。その他兄弟が力を合せて七ヶ月、一粒社の都築社長に、多大なアドバイス協力を頂き、立派な本が完成し大変喜んでおります。ありがとうございました。

『南吉の詩が詩る世界』
新美南吉記念館 館長 矢口  栄様
   南吉の詩と初めて出合ったのは昭和三七年南吉の最初の詩集「墓碑銘」によってだった。
当時私は、南吉の詩を辛く悲しい詩だとばかり思っていたのだったが、実はそうではなかった。その詩は、辛く悲しい作品とともに、はかなく美しい作品、明るく爽やかな作品、ウイットとユーモアに富んだ作品、ひたすらに純粋なものを求めた作品、超現実的な作品等々、実に多彩であった。
平成八年より南吉記念館に席を置くことになった私は、「記念館だより」に南吉の詩を紹介し解説させていただく機会を得た。以後足掛け六年間にわたり書き綴ったものを一冊にまとめてみたら、という読者の声をいただき、自分も南吉文学の原点ともいえる詩を一人でも多くの方に楽しんでいただきたいと思い「南吉の詩が語る世界」の出版となった。
今回の出版に際し、詩人の谷川俊太郎氏より推薦のことばを寄せていただいたことは、何より幸甚なことであった。

『もうパーキンソン病と呼ばないで』
 丹羽 浩介様
    進行性の難病、パーキンソン病を発病したのは四十五歳の時である。当時、薬の効くのは八年といわれていた。と言うことは五十三歳で社会生活が出来ないことになる。多少の葛藤曲折はあったが私は人生を受け入れた。
昨日はすぎたこと、明日は未だ来ぬ日、今日一日に全力で生きることにした。その後二十年、私の病状はストップしたままである。体力には欠けるが健常者と変わらない。その秘訣は、病気を意識しない生活に徹したからだ。
この病気、診断が下ると大抵の人は、ショックでしばらく立ち上がれない。そのまま寝込んだりする人もある。社会生活に不便はなくとも先行きの恐怖感に自分で負けてしまう。執筆の動機はここにある。「今を無駄にするな、身体は倒れても心に錦を飾れ」私の体験を通して呼びかけたい一心で原稿を書き綴った。心が通じて読んでいただいた人には元気が出たと大変好評である。感謝。


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